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砺波平野と庄川

砺波平野の形成と庄川の東遷

 出町(杉木新町)は庄川扇状地の扇央部のほぼ中央に位置しています。砺波平野と呼ばれる扇状地は長い年月をかけて、庄川と小矢部川の急流によって形成されてきました。 庄川の川筋が現在のように扇状地の東の端に固定され、堤防が築かれその動きが抑えられたのは、近世に入ってからのことです。それ以前は扇頂部の青島あたりから幾筋もの分流となり、 扇状地を流れ下っていました。
 その主流は、奈良時代には今よりずっと西(野尻川の西)を流れて小矢部川へ合流していたことがわかっています。万葉集に多く歌われる 『雄神川』はこの河道のことで、現在の流れとは大きく異なっています。 その後、主流は徐々に東(野尻川、中村川、新又川、千保川、中田川)へ移動し、 現在は旧中田川筋が庄川本流となっています。

図は佐伯安一著『近世砺波平野の開発と散村の展開』より引用し、加筆しています。

砺波十町と出町

砺波平野の十町

 砺波平野には、俗に「砺波十町」といって、だいたい一里(4キロ)から一里半(6キロ)間隔で10の町が散らばっています。城端・福光・福野・井波・津沢・石動・福岡・ 出町・戸出・中田がこれです。
 各町の成立時期をみると、中世末までさかのぼる町と、近世初期にできた町とに分かれます。砺波平野の近世は、天正十三年(1585)前田利家が豊臣秀吉の先陣として 入部し、利波(砺波)・射水・婦負の三郡を与えられた頃から始まります。このころまでに成立していた町は、井波・城端・福光の三町のみで、いずれも真宗寺院の門前町でした。
 天正十四年(1586)に石動、慶長十年(1605)に中田、元和三年(1617)に戸出、慶安二年(1649)に出町、慶安三年(1650)に福野、承応年間(1652-55)に福岡、 万治三年(1660)に津沢というように、相次いで町が成立していきました。
 この頃は加賀藩の農政の基本である改作法体制が固められていた時期で、年貢負担に耐えられる強い「百姓」を育成するために、 農村から商業的活動を締め出す農商分離政策がとられていました。農村の二男三男を集めて町を作る方法は、藩の政策にも沿ったものでした。

出町という呼び名の由来

 出町は慶安二年(1649)に『杉木新町(すぎのきしんまち)』として成立しました。当時、加賀藩は農商分離政策をとっていたことから、 付近の村々から二男三男がこの町に集まるようになります。
 普通分家すると、新家・出家・出店などと言うように、杉木新町も杉木村から出た町ということで『杉木の出町』あるいは『杉木出町』と呼ばれていました。 その後、いつしか杉木が省略され『出町』と呼ばれるようになります。 天明年間(1781-1789)には、藩の記録にも杉木を省略した『出町』として記録されていることから、この頃には出町という町名は誰も不審に思うこともなくなっていたと考えられます。
 その後、明治二十二年(1889)町村制実施の時に、杉木新町・太郎丸村・大辻村・深江村・神島村・鷹栖出村・中神村・杉木村の一町七ヶ村が 一つの自治会を作り、正式に『出町(でまち)』が誕生しました。

出町の歴史

出町(杉木新町)の歴史

 杉木新町(すぎのきしんまち)は、現在の砺波市の中心市街地で、俗に「出町」と呼ばれています。 庄川の本流も千保川・中田川に移り、出町周辺が洪水の心配が薄れてきた頃、ここに町を作ろうとする者たちが現れます。
 杉木新町の町立て願書(右画像)が提出されたのは慶安二年(1649)正月で、願人は杉木村・二郎兵衛を筆頭に、杉木村4人、太郎丸村4人、十年明1人、深江村4人、 中神村2人、北高木村1人の16人で、いずれも予定地に隣接した村で、長さ三百間・幅八十間、草高にして百石の地に家百軒を建てたいというものでした。
 町の主なできごとを年代順に追ってみましょう。

寛文四年(1664)御旅屋が作られる
   加賀藩五代藩主・前田綱紀は、しばしば砺波郡で鷹狩りを行っていました。この休憩所として御旅屋が作られ、御旅屋の御膳水として掘ったのが 「御旅屋の井戸」で、今も豊受神詞の敷地内に残っています。
   
寛文六年(1666)十村相談所ができる 
   郡内の十村(他藩では大庄屋のこと)が集まっていろいろな協議をしたり、軽い民事を裁いたりする十村相談所が設置されました。藩政の結節点として、また砺波地方の自治的な機関として 機能しました。 
   
元禄十一年(1698)蔵宿ができる 
   年貢米のうち藩士の知行米を預かるのが蔵宿で、この年、不動島屋源助が一万石の蔵宿を許されました。
   
天明九年(1789)曳山ができる
   豪商の多かった西町に作られ、ついで中町・東町にも作られました。曳山の舞台で子供歌舞伎が演じられるようになって、周辺に異彩を放ちました。
   
文政四年(1821)御郡所の誘致
   従来、砺波射水御郡奉行所は小杉新町に置かれていましたが、砺波郡の十村が請願した結果、砺波御郡所として独立し出町に置かれました。
   
  幕末までは、町の発展はそれほど急激ではありませんでした。当時の物流は陸運ではなく舟運が主流であったため、小矢部川や庄川から離れていて、 水運の便に恵まれていなかったことが原因と考えられます。しかし、砺波平野の中央に位置することから、十村相談所や砺波御郡所のように、郡の行政的な 中心地としての性格を持っていたと考えられます。
   
明治十七年(1884)~道路交通網の発達
   石動―出町線・出町―東別所線(現在の国道359号線)の拡幅が始まります。これ以降周辺地域との道路網が順次整備されていき、物流は舟運から陸運が主流になっていきます。
   
明治十九年(1886)郡役所の誘致 
   それまで今石動町にあった郡役所が出町へ移転されます。郡の中央ではない今石動よりも、郡央の出町への移転は誰もが望んでいました。
   
 明治二十一年(1888)出町裁判所ができる
    敷地建物一切の費用を出町の人たちが負担し、寄付をする形で建築され、同年12月高岡治安裁判所杉木新出張所が落成しました。
   
 明治二十七年(1894)中越銀行の設立
    出町の富商地主層を中心に設立され、富山県内の有力銀行として発展しました。昭和18年(1936)他の3行と合併し、現在の北陸銀行となりました。
   
明治三十年(1897)中越鉄道の開通
   砺波・射水・高岡の有志によって設立された私設鉄道(現在のJR城端線)で、富山県で初の鉄道事業でした。中越鉄道は、砺波地方の地域開発に大きく貢献しました。
   
明治四十二年(1909)出町税務署ができる
   それまで井波、石動に分署としてあったものを合併して出町税務署が新設され、東西両砺波郡を管轄しました。
   
  藩政時代の道路は幅一間のものが主要道路でしたが、この時代に道路網は順次整備されていきました。これにより出町は、水運に恵まれないというハンデが 解消され、元々行政機関の誘致に熱心であったことに加え、物流の面でも出町は発展する要素を備えるようになり、町の発展のスピードは勢いを増していくことになります。
 現在の出町の基礎は この時代に築かれたといっても過言ではないでしょう。また、中越銀行や中越鉄道が出町の発展に大きく貢献したことはいうまでもありません。


佐伯安一著『近世砺波平野の開発と散村の展開』より一部引用しています。