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出町神明宮春季祭礼 出町子供歌舞伎曳山

出町神明宮

 杉木新町の町立てが始まった翌年の、慶安3年(1650)の3月に杉木新町の総氏神として創建された社で、 祭神は天照皇大神です。創建当初は『杉木新神明社』と呼ばれ、境内は鬱蒼とした森林で加賀藩の御留林にも指定されていました。

 明治33年(1900)8月19日、出町を未曾有の大火が襲います。この時、杉木新神明社も焼失し境内の大樹も大部分が失われてしまいました。しかし、氏子たちの熱意により 明治36年(1903)4月15日本殿遷座式が行われ、再建を果たします。この時期には、『出町』という地名は俗称から正式な地名として定着していたことから、 氏子たちは『出町神明宮』と呼ぶようになりました。
 その後も神社としての整備を順次行ってきましたが、昭和19年(1944)5月7日、 またしても火災が出町の町を襲い、出町神明宮は焼失しますが、再び氏子たちの努力により再建を果たし、現在に至っています。
 杉木新神明社、出町神明宮はともに俗称で、『神明宮』が正式な名称です。


春季祭礼と子供歌舞伎

 神明宮の春季祭礼は元々4月16日で、人々が手に手に行燈を持ち、伊勢神宮の御分霊を迎えたことに由来し、 農家の五穀豊穣を祈って執り行われていました。その後曳山が建造されると、春季祭礼に曳山が曳き出されて、子供歌舞伎が奉納されるようになりました。現在(平成21年から)は4月29日に変更され、 『出町子供歌舞伎曳山祭り』は4月29日、30日の2日間に渡って執り行われています。
 昭和43年までは、3町全てが歌舞伎芝居を上演し、神明宮の奉納歌舞伎の順番はくじ引きで決められ、 一番に歌舞伎を奉納することが名誉とされていました。しかし、翌年からは当番町制となり、当番町1町が芝居を上演し、他の2町は曳山を町内に曳き出し『飾り山』をするようになりました。


祭りのしきたり

 子供歌舞伎の役者・関係者は、まず神明宮で祭りの成功と安全を祈願し、お祓いを受けます。お祓いを受けた役者は 『依代(よりしろ:神霊が依るもの)』になるとされ、この後の2日間の祭りの間、地面に足を着けてはならないとされています。 役者の移動は全て若衆が担いで行います。
 当番町の曳山は、奉納歌舞伎を終えると、芝居をしない他の2町の地内に入って芝居を上演します。出町ではこれを『他町曳き』と呼んでいます。 他町の代表は町内の境界まで出て当番町の曳山を迎えます。当番町は、他町に入る直前で曳山を誘導する拍子木をその町内の代表者に渡し、それ以降はその町内の関係者の誘導で上演場所まで移動し、 芝居を上演することになります。
 当番町の曳山は、奉納歌舞伎、他町曳きが終わって初めて自分の町内に入って芝居を上演できるようになります。ここからが『自町曳き』です。 ここから2日間に渡って、あらかじめ決められた十か所ほどの場所で芝居を上演します。特に2日目の最後、千秋楽を特に『留め山(とめやま:記憶に留める)』と呼び、 最も盛り上がる最後の上演となります。
 2日間の祭りの中で、三基の曳山を一同に揃える場所があります。これを『三町揃い曳き』と呼んでいます。 三町揃い曳きは、その年々の当番町が「いつ、どの場所で行いたい」旨を他の2町に伝え、3町同意のもとで決定されます。
 三町揃い曳きでは、芝居のほかに三味線教室の子供たちの演奏なども披露され、最も華やかな上演場所といえるでしょう。

子供歌舞伎の衣裳

 出町では、子供歌舞伎の衣裳やカツラ、道具類を各山方が所有しています。これは、 代々親が子供のために作った衣裳を、祭りが終わると山方に寄贈していくためです。衣裳の裏には、寄贈者の名前や寄贈年月日などが記されており、各町で子供歌舞伎の衣裳やカツラ、 道具などを大切に受継いでいます。
 曳山子供歌舞伎は、全国に出町を含めて小松(石川)、長浜、米原(滋賀)、垂井、揖斐川(岐阜)の6つの市町に受継がれていますが、自前の衣裳やカツラを使っているのは 出町だけで、他の地域には見られない出町子供歌舞伎の特徴となっています。
 各山方では、昔から伝わる衣裳と新調された衣裳を、外題に応じて有効に活用していくことで、これまで多くの外題を演じてきました。